和紙

鳥の子の紙漉きの様子、襖紙の大判を漉くには舟(紙を漉く桶)や漉き桁など設備も大型に。(一般社団法人 日本襖振興会 ホームページ動画より)
鳥の子の紙漉きの様子、襖紙の大判を漉くには舟(紙を漉く桶)や漉き桁など設備も大型に。
(一般社団法人 日本襖振興会 ホームページ動画より)

“和紙”と一言で言っても、それを定義するのは少々難しいと言わざるを得ません。一般的にはヨーロッパなどから伝わった洋紙(西洋紙)に対して日本製の紙(日本紙)のことを指す場合もありますし、和紙=日本古来の伝統的製法で作られたもの(手漉き紙など)と捉えている人もいるでしょう。和紙と称されている紙の中には、原料の種類から仕上がりの質感、見た目、用途、製法など多種多様な紙が存在します。また、生産地域によっても様々な特性があります。
そもそも“和紙”という言葉はいつから使われているのでしょう。全国手すき和紙連合会が発行する『和紙の手帖Ⅱ』によると、総称としての“和紙”は、江戸時代までの文献では見られないそうです。意外に思われますが、“西洋紙”の方が言葉としては先に使われ始めているとのこと。つまりは歴史的に見ると比較的新しい言葉だと言えます。前述の『和紙の手帖Ⅱ』によれば、<「和紙」は、日本の手漉き紙を意識した機械すきの紙を示す言葉として出発し、やがて本当の手漉き紙も含めて示すようになったようです。ですから、手漉き和紙と言って、伝統的な材料と手段でつくられた紙を示し、機械すき和紙と言って、明治以降導入された工業紙の材料と手段を利用してつくった紙を示している現在の状況は、至極自然なのかもしれません。>と述べられています。
そこで、このサイトでは日本の内装材料でもよく使用される、いわゆる“和紙”について、整理し、その特徴についてご紹介します。

和紙と洋紙について

現在、「明治時代に欧米から入ってきた機械抄き紙を“洋紙”と呼び、これに対し、日本で製造されていた手漉き紙を洋紙と区別するために“和紙”と呼ぶようになった」と、理解している人も多いと思います。しかし、『和紙の手帖Ⅱ』(全国手すき和紙連合会)によれば、“和紙”という言葉が登場した明治初期はこれとは少し違ったようです。以下一部引用します。
<では、洋紙についてはどうでしょうか。「和紙」と「洋紙」は、対比して使われる言葉ですが、同時期に現われた言葉はないようすです。洋紙あるいは西洋紙の言葉は、和紙よりはるかに早く見ることができます。文化二年(1805)に刊行された谷川清著の『和訓栞』に初めて西洋紙の呼称が見えますが、同じ文章の中で、和紙とは言わずに日本国の紙という使い方をしています。また、この場合の西洋紙は、手漉きの用紙を意味しています。 製紙機械を導入した当初は、手漉き和紙に似た洋紙をつくって、従来の手漉き紙の用途向けに売り込もうとしたふしがあります。和紙という言葉は、初めから機械すきの紙を対象に想定してつくられたようなのです。どうも、手漉き紙を和紙という言葉に含めて用いるようになったのは、かなり後になってからのようです。
明治四年(1872)、百武安兵衛は、前年のアメリカ視察の後、直ちに製紙会社設立と機械購入の準備に取りかかりますが、その中で彼が書いた『楮紙製造結社之義口上覚』によれば、「……漉立候西洋紙は外国人へ売渡候積り、……和紙は国内江手広く売り出す積り……」とあります。また、「椿紙製造商社」の創立大綱には、「……一、右製造出来立之紙売捌方之儀ハ兼而外国へ捌キ和紙ハ地方へ捌候積リ……」とあることから、彼がいう和紙とは、機械ですいた手漉き和紙風の紙を指しているのが明らかです。また、これが「和紙」という言葉の初出になります。>
このことから、このサイトでは伝統的な手法でつくられた紙を手漉き和紙、日本の手漉き紙を意識した機械抄きの紙を機械抄き和紙と表現します。

手漉き和紙と機械抄き和紙

和紙には伝統的な手漉き技法(流し漉きなど)によるものと、特殊な抄紙機による機械抄きのものがあります。普段私たちが日常目にし、使用している紙(ノートや本、包装紙など)の多くが機械で抄かれた紙です。

機械抄き紙は、長網抄紙機や円網抄紙機という大型の紙抄き機械で、大量生産されています。連続的に大量生産されることにより、品質的にも安定し大量に使用、消費するのに適しています。定められた条件のもと、原料の段階から画一的に作られ、品質を一定に保った紙であると言えます。現在では、機械で抄くことができないとされていた楮(こうぞ)の繊維も機械抄きが可能となり、手漉き和紙に非常によく似た紙が作られるようになりました。これらを機械抄き和紙と呼ぶことがあります。

機械抄き紙
機械抄き紙

手漉き和紙は、その工程のほとんどが手作りです。和紙作りの原料は、産地やその工場によって異なり、個々の紙漉き工場で使用する分だけ処理され、パルプ化されたものを使用します。そのため、原料となる楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)の処理も人や産地によって違いが生じます。手擁き和紙は紙漉き職人が一枚一枚漉き上げます。よって人により差が生じ、それが紙の個性となって現れます。もちろん手漉き和紙の品質にばらつきがあってよいわけではなく、熟練の職人による手では同様の品質の紙を生産します。
伝統的な手漉き和紙の代表的な繊維原料は楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)です。粘剤(トロロアオイなど)を増粘剤と繊維の分散剤として用い、流し漉き法で抄紙(しょうし/意味:紙を漉くこと)したものとなります。しかしこれらの原料を使用した手漉き和紙はコスト面が割高になります。現在は、手漉き、機械抄き共に、多様な用途、生産量やコスト面からその製造方法や原料の配合などには様々なものがあります。例えば、洋紙の原料が綿ぼろから木材パルプヘ変化し、機械抄き和紙の登場、コスト面から和紙原料として木材パルプの導入などが挙げられます。これらの変化により、和紙の定義は曖昧となり、人や産地によって異なる表現や説明がなされることにも繋がっています。

手漉き和紙
手漉き和紙

伝統的な手漉き和紙の特性

質感とイメージ

印刷や筆記用の洋紙は紙面の平滑性が求められます。そのため紙としては締まったものが要求されます。一方、似た厚さの楮(こうぞ)を原料とした手漉き和紙は、あまり叩解せずに長繊維をきれいに分解させて抄紙(しょうし)することで、空気を多く含み熱伝導率が低くなり、触ると暖かく感じます。紙面は平滑ではないので、紙表面で光を拡散させて柔らかい感じを見る人に与えます。

質感とイメージ

高い強度

植物の繊維には“自己接着性”があり、繊維と繊維の重なった接点は互いにくっつき合うという性質を持っています。植物繊維(セルロース)は、ブドウ糖からできており、このブドウ糖が沢山長く繋がって出来たものがセルロース分子です。これは水には溶けないが水とよくなじむ性質“親水性”があり、このセルロース分子がたくさん集まってできたものが繊維です。親水性というのは、セルロース分子のところどころに水の分子と同じ型をした部分があり、その部分と水とは良く結合するために生まれる性質です。そのため植物繊維は水となじみやすく、繊維を水に浸けると非常によく水を吸い膨張します。繊維に十分水を吸わせて、それをシート状にして乾燥させると、今まで水と結合していた繊維と繊維の接触している部分が、繊維同士の結合に変わり、ひとつひとつの結びつきは弱いが、紙全体では数えきれないほどたくさん結合するので、大きな力となり丈夫な紙ができるのです。

楮(こうぞ)繊維は針葉樹繊維に較べ長い繊維です。その細長い繊維を切断せずに水中に分散させて、簀(さく/意味:すのこ)の上に均等に漉き取る流し漉きの技術によって薄くても大変強い紙を抄紙することが出来ます。その代表例が世界中の紙製文化財の保存修復にも使われる典具帖(てんぐじょう)です。その電子顕微鏡写真をみると繊維がきれいに分散してシート状になっていることがわかります。薄く強く、保存性にも優れた紙です。
雁皮(がんぴ)や三椏(みつまた)の繊維は楮ほどではありませんが、やはり針葉樹繊維よりも長く、幅は細くなっています。雁皮はさらに多量に含まれる柔細胞が繊維間を埋めるので、良い光沢を有するなどの特徴があります。

高い強度

日本各地の和紙

日本には全国各地に様々な和紙の産地があり、冬場だけの紙漉き場や個人で頑張っているところ、新しい漉き場などかなりの数があります。また、残念ながら担い手がなく、生産されなくなった紙もあります。 ここでは全国手すき和紙連合会 発行『和紙の手帖』2014年7月1日発行(改訂版1刷・初版より7刷)と『和紙の手帖Ⅱ』(1996年7月20日 第1刷)に記載されている各地の紙を中心にご紹介します。

東北地⽅

東北地⽅ TOHOKU

秋田県

秋田県の紙は、慶長七年(1602)に常陸の佐竹氏が入封して始まったと言われる。

十文字和紙(じゅうもんじわし)/横手市十文字町

原料は地元産の楮。「十文字紙」とも。雄物川の豊かな水は河原の土壌を肥やし、良質の楮を育て湧き水にも恵まれ、睦合周辺は古くから紙漉きが盛んだった。大正になっても十数軒が紙を漉いていたと当時の石碑が残っている。その後、一軒となり、毎年12月から翌年3月までの農閑期に紙を漉いている。最近は圃場(ホジョウ 農地の意)整備が進むにつれて水の汚れがひどくなり、湧き水ではなく水道を使っている。

岩手県

東山和紙(とうざんわし)/西磐井郡平泉町

岩手県一関市東山町で生産される和紙。原料は楮。製造の歴史は古く、平安時代末期にまで遡るとされる。素朴な風合いで丈夫。書画用紙、ハガキなどに加工される。「東山紙」とも。1189年(文治5年)に奥州平泉(現在、西磐井郡平泉町)の藤原勢の落人が、農耕のかたわら生活用品として作りはじめたもので、約800年の伝統がある。畑で栽培された楮の皮を原料とし、楮色をした自然の色、繊細優美で素朴な味わい、丈夫な紙質で、障子紙をはじめいろいろな民芸品として愛され、使われている。

成島和紙(なるしまわし)/花巻市東和町

花巻市東和町の成島地区で生産される和紙。原料は楮。9~10世紀頃に製法が伝わったとされる。語り継がれてきた伝説が二つあり、ひとつは、大同二年(807)、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、村社熊野神社を勧請した時に製紙の技術も伝わったというもの。もうひとつは、嘉祥年間(848〜850)慈覚大師が当地に毘沙門堂を建立した時伝来したというもの。
東和町は岩手県のほぼ中央にあり、このあたりは宮沢賢治記念館や新渡戸稲造記念館のある文学の里とよばれ、紙漉きの歴史は古い。かつては南部藩の御用紙であった。厚みがあり丈夫。現在、和紙工芸館が体験場を兼ね成島和紙を伝承している。

山形県

出羽国での紙漉きの起源を示す記録は発見されていないが、『延喜式』に原料を納めていたことが記されている。紙に関する記録としては『駿府恩文物道具帳』に元和四年(1618)駿府城内に蔵されていた紙名48種のがみ中に「もがみ帋(がみ)」があり、寛永一五年(1638)『毛吹草』には産地の名物として油紙が、安永六年(1777)『新撰紙鑑』には出羽の小半紙、大方、厚紙、松葉が紹介されています。現在、最上郡舟形町長沢、西村山郡西川町岩根沢、同町綱取、西置賜郡白鷹町深山、上山市高松の五ヵ所で紙を漉いている。

高松和紙(たかまつわし)/上山市高松

上山市の高松地区で生産される和紙。江戸期より製造が続くとされ、かつては100戸を超える紙漉き農家があったが、現在は1戸が残るのみ。「上山紙(かみのやまし)」ともいう。
高松の紙の起源は不明だが、寛水年間(1624〜44)に大和国吉野郡の松本長兵衛安清が上山に来て、漆濾しの麻布紙(吉野紙)を伝えたといわれる。しかし、高松にはそれ以前から紙漉きが行なわれていたという記録もある。そのひとつに光明紙がある。それにまつわる伝説として「高松川の両岸に民家があり、この地の住民に紙漉きの技を教えたのは、四国の高松からこの地に移住した僧侶・光明坊である」がある。高松の地名も、四国の高松に由来があるよう。紙の特徴としては、楮や紅花を栽培し、萱簀(かやす)を編み、紗を簀に張り付けるなど、自給自足の紙づくりをしている。紅花や藍の植物染料で楮紙を染めている。麻布紙は特別の求めがある時のみ漉いている。

長沢和紙(ながさわわし)/最上郡舟形町長沢

最上郡舟形町の長沢地区で生産される和紙。原料は楮と糊空木(のりうつぎ)。製造の起源は古く、鎌倉時代にまで遡るとされる。鎌倉時代に曽我一族の鬼王団三郎が和紙づくりを伝授したと伝えられ、以後800年にわたり和紙づくりが行なわれた。藩政時代に領主の幕府献上品として、また各種の御用紙や領民の障子紙として広く愛用されてきた。また戦国時代にあっては、天下にその名を恐れられた出羽乱肌(ではらっぱ)の忍衣装に用いられ、強靭なその製品は他に類を見ないといた。昭和に入り一時期生産が途絶えたが、地区住民により復活。舟形町の無形文化財に指定。「舟形紙」とも。
最近の長沢和紙の生産の最盛期は、昭和13年頃と27年頃で、年間8000帖から一万帖を生産し、地区内のほとんどの農家で紙漉きが行なわれていた。ところが戦後急速なハルプ紙の普及や、開田による楮畑の水田化から原料不足となり、昭和39年、地区の共同紙漉場の閉鎖を機に長沢和紙は一時途絶える。しかし、昭和54年に最上地方が国のモデル定住圏構想の指定を受け、「長い伝統をもつ長沢和紙を復活させよう」という地区民の声が高まると共に、舟形町が地域開発計画推進のひとつとして「長沢和紙」の復活を取り上げた。特産品の指定を受けたことで、地区民で結成された長沢地区郷土特産物生産振興協議会が町の援助を得て、昭和57年に約18年ぶりに復活生産に入った。現在、郷土特産物即売センター松原では忠実に伝統を受け継ぎ和紙の生産に励んでおり、山野に自生する楮の皮とノリウツギの汁だけでつくる和紙を生産。素朴でしかも優雅さをもち、強靭なところが特徴。

月山和紙(がっさんわし)/西村山郡西川町

原料は楮。江戸期より“西山和紙”の名で漉かれていたが、高度成長期に生産者が激減。和紙職人の飯野博雄氏が改称して技術を継承、現在は大井沢にある自然と匠の伝承館の紙漉き工房が月山和紙を受け継いでいる。月山紙(がっさんし)とも。西山和紙の起源に関する確かな文献はないが、寛永16年(1639)には岩根沢で紙漉きが行なわれていたようである。16世紀後半、寺社や庄内地方に広く販路があり、明治33年に221戸の紙漉きが大奉紙(障子紙として。一万五千帖)、美濃紙(一千帖)、半紙(一万帖) を冬期の副業として漉いていたという記録がある。
月山和紙の特徴は、西川町産(不足分の楮は高知県産等の国産)の楮100%の手漉き和紙であること。薬品漂白は行なわず、ソーダ灰煮熟、板干し自然乾燥にこだわり、地理的特徴を生かした和紙づくりを心がけている。山形県の特産品である紅花や、大井沢のブナやヤマブドウ、月山タケノコを取り入れた紙を漉いている。

深山和紙(みやまわし)/西置賜郡白鷹町

山形県西置賜郡白鷹町の深山地区で生産される和紙。原料は楮。製造の起源は古く、室町時代に遡るとされる。「深山紙(みやまがみ)」とも。古文書によれば、江戸の初期に「上り紙」として江戸に送られていたほど技術的にもすぐれていた。現在も続く手漉き和紙。この紙は無類の強靭さを誇り、風雨に晒せば晒すほど白さを増す。用途としては、障子紙、保存文書、卒業証書、名剌、色紙、版画用紙、織物、衣袋、趣味の人形、民芸、工芸品などの材料ほか、さまざまに使用。

宮城県

宮城県は近世に伊達政宗の奨励によって紙つくりが盛んになった。江戸時代には白石の紙布(しふ)(1661)、紙衣(かみこ)(1712)の生産が始まり、全国に名声を高めた。

白石和紙(しろいしわし)/白石市

原料は楮。平安期に生産されていた「陸奥紙」から伊達政宗の保護、奨励をうけて発展、一大産地に。片倉小十郎の領内の百姓の冬期内職で300軒の紙漉き家があった。日本画家、川合玉堂が「蔵王紙」と命名したことでも知られる。白石特産でトラフコウゾと呼ばれているカジノキの雌株があり、根分けして育苗、畑地に栽培。それを原料にしてつくる純楮生漉き和紙。柔らかく、軽く丈夫であるため、紙布、紙衣をはじめ書画、型染、永年保存記録用、壁紙などに適す。平安の頃からの陸奥紙をそのまま受け継いだ特徴のある手漉き和紙。

柳生和紙(やぎゅうわし)/仙台市太白区柳生

柳生の和紙づくりはおよそ400年前に、仙台藩主伊達政宗が福島県伊達郡茂庭村から4人の紙漉き職人を呼び、和紙づくりの指導に当たらせたことから始まった。この土地はきれいな地下水が豊かで、高館山のふもとにあるため乾きやすく、紙漉きには都合が良かった。柳生和紙の最盛期は明治後半から大正にかけての時期で「柳生に行くと太白(白砂糖)を食わせられる」と言って、近くの若者たちは争って手伝いに来たそ腕ある。しかし、大正11年に、長町に紙を大量につくる工場ができ、手数のかかる柳生和紙はたちうちできなくなり、昭和35年には10戸となり、主に障子紙を作っていた。後に仙台市では一軒だけとなり、菓子の包装紙、松川だるまの張子紙、書道紙、卒業証書など。

丸森和紙(まるもりわし)/伊具郡丸森町

原料は楮。仙台藩御用紙として保護、奨励を得て発達。手触りはやわらかで丈夫。伊具郡は、奈良・平安時代の奥羽拓殖の太幹線であった阿武隈川が中央を流れ、河舟による物資の流通が盛んな地域だった。山多く水清らかな伊具の地は、地形、楮の生育状態、水質の良さなど、古くから流域の山沿いで紙漉きが始められていた。五の日、九の日に丸森では紙市と楮市が開かれ、大いに賑わったという。藩政時代には200戸あった紙漉き農家も、明治30年以後、養蚕業の発達に伴い急激に減り、丸森の紙市も自然消滅。後に2戸を残すのみとなる。紙の特徴は昔と変わらず、伊具産の和紙特有の張りのあるなかにもふくよかな味がよく出ており、平安時代の陸奥紙を思わせる。

福島県

この地方の紙にまつわる伝説には、紙祖・聖徳太子説がある。暮れの12月20日には、紙の関係者が太子堂に集まり太子講が開かれる。藩政時代の福島県では、かつての会津藩内の出原(いづはら)紙、棚倉藩内の上遠野紙、二本松藩内の川崎紙の三紙が代表的であった。中でも二本松藩は、紙を厳しい統制下に置き、「紙漉札」を交付していた。

上川崎和紙(かみかわさきわし)/二本松市上上川崎

二本松市上川崎地区で製作されている。原料には楮を使用。一枚一枚手作業で漉かれる。現在は、書画や民芸品の材料として利用されている。福島県伝統的工芸品。起源は平安時代に遡るという。「人皇第六十三代冷泉天皇の御宇」上川崎川之端の栗舟渡し場のあたりで始められたとなっている。その後二本松藩政時代に丹羽藩主は産業振興の立場から、紙漉きを許可制にして奨励。これが今日の上川崎和紙の基礎となったといわれる。さらに、明治中期から紙の需要が急激に伸び、大判紙の製造にも乗り出し、生産量も大幅に上がったことから販路も拡大し、上川崎手漉和紙は飛躍的な振興をみた。後に上川崎和紙振興組合に6軒が属し、副業として紙を漉く。二三判を主とした一般和紙を漉くほか、はがき、便箋等の各種和紙製品、草木染め、化学染料を使用した染紙などを製造。

遠野和紙(とおのわし)/いわき市遠野町

永禄年間より生産が始まったとされる。変色しにくく、江戸武家記録用紙にも用いられた。「いわき和紙」「遠野紙」ともいう。原料は楮100%で寒漉き(冬期間のみ漉く)未晒紙。楮は白皮処理し、ソーダ灰煮熟、手打ち、手漉き、天日乾燥の伝統製造法により生産される。上遠野の製紙史は永禄年間(1558〜69)にさかのぼり、棚倉藩の奨励により上遠野紙は江戸武家記録用紙として重宝された。大福帳用紙の延紙(のべがみ)も有名。古川古松軒の『東遊雑記』では上遠野紙業繁栄が記されている。明治20年頃には約600戸が生産していたが、現在では生産者は廃業となり、磐城手業の会により遠野和紙製造を継承する。