襖の歴史

はじめに

襖の歴史

襖は、日本独特の間仕切建具である。しかし、最近は次第に使われなくなり、押入れにだけということも珍しくない。
襖の特徴は、まず軽いこと、引違いであること、そして表の紙を貼替えて新しくしたり雰囲気をかえることが出来ることなどにある。その構造は、木で組んだ格子を骨として、両面に紙の下貼りをし、仕上げに紙または紙で裏打ちをした布を貼り、四周に黒い漆塗の細い縁をつけている。この襖は、敷居にほった浅い溝をガイドに左右に動き、通常二枚が引違いに組み合わされて使われる。

襖とは(襖障子と唐紙障子)

広辞苑をひくと、襖とは「木で骨を組み、両面から紙や布を貼ったもの。襖障子・からかみ」と記されている。国語辞典の襖の項にも「からかみ」とあり、唐紙の項には「ふすま」とあるから、二つの名前を持っていたことになる。古語辞典でも襖障子の項には「現在のふすま、からかみ」と書いてある。
唐紙障子の項には唐紙を貼った襖障子とあって、はじめて表面に貼った材料で、襖障子の中で唐紙障子が呼び別けられていたことがわかる。しかし、三、四十年前まで、少なくとも戦前はよく聞いた「唐紙」も、この頃はほとんど使われなくなった。
江戸時代にさかのぼると、建築に関する図面や文書では、襖障子、唐紙障子と書くのが常であった。当時普通の障子は明障子(あかりしょうじ)と呼ばれていたから、江戸時代には三種類の障子があったわけである。
江戸時代におけるこの三種の障子の区別は、襖障子は鳥の子紙を仕上げに貼り、その上に金箔を貼り極彩色で絵を描くほかに、そのまま彩色あるいは墨で絵を描くものを指し、唐紙障子は仕上げに唐紙、則ち無地の色紙あるいは木版によって文様を刷った紙を貼ったものを指していた。明障子は、言うまでもなく、格子の外側に光を透す白紙を貼った現在の障子である。
襖障子と明障子は例をあげるまでもないが、唐紙障子には、桂離宮の古書院に使われている桐の文様、曼殊院の竹、武者小路干家のうずまきなどの例がある。

襖障子・唐紙障子の使いわけ

江戸時代の著名な建物で、これら三種の障子のうち、襖障子と唐紙障子がどのように使われているかを見ることにしよう。
まず、京都にある桂離宮である。桂離宮は、江戸時代のはじめに、八条宮の別邸として初代智仁親王、二代智忠親王によって造られた。その中心となる建物は、古書院・中書院・楽器の間・新御殿と呼ばれる書院群で、池にむかって雁行して配置されている。
これらの建物の中で襖障子が用いられている所を探すと、中書院の一の間と二の間の境、二の間と三の間の境で、中書院に集中している。これらの襖障子には、当代随一の絵師、狩野探幽・同尚信・同安信の三兄弟が、白地に墨絵を描いている。
一の間・二の間・三の間の障壁画は、襖障子だけでなく、部屋の四周の壁や板戸の裏にまで拡がっている。板戸の内側には、襖障子と同じ鳥の子紙を貼って絵を描き、壁の部分は、土壁とはせずに壁の大きさに合せて襖障子と同じ木の格子に紙を貼ったパネルをつくり、絵を貼った上で柱の間にはめ込み、漆を塗った四分一(二寸五分角の桟)を周囲に打って固定している。
唐紙障子が使われているのは、古書院・楽器の間そして新御殿である。古書院のほとんどの間仕切は、唐紙障子である。白地に黄土色で桐の紋を刷った唐紙である。この紋が金色にみえるのは、黄土色に雲母の粉末が入っているからである。この手法をきら刷りと呼んでいる。古書院では、唐紙障子だけでなく、貼付壁もすべて同じ唐紙である。
楽器の間と新御殿は、白いきら刷りの小さい桐の紋の唐紙である。古書院の金色に対して、銀色にみえる。便所・湯殿には、色違いの唐紙が使われている。
一方、同じ時代に建てられた二条城の二の丸御殿の場合は、襖障子ばかりで、唐紙障子は全く使われていない。この御殿は、慶長八年に徳川家康が建て、寛永三年に後水尾天皇の行幸を迎えるに当って三代将軍家光が模様替をして出来上った。桂離宮と同じ狩野探幽らによって障壁画が描かれている。 主要な部屋は、いずれも地に金箔をはりつめ、極彩色の濃絵(だみえ)で花鳥を主題にした障壁画を描いている。裏に当る部屋の襖障子や貼付壁などの障壁画は、濃絵ではあるが地に金箔を貼っていない。最も奥の白書院の場合は、墨絵である。

襖障子と唐紙障子の性格

以上の二例で襖障子と唐紙障子が使われている状況をみたが、その他の場合も考慮して、一般的な使いわけについて考えると、夫々に次のような性格があることがわかる。

  • 襖障子は堅い書院造の建物に使われ、唐紙障子は数寄屋がかった軽い建物に使われる。
  • 一つの建物の中では、襖障子は主要な部分に使われ、唐紙障子はそれ以外の所に使われる。
  • 襖障子は正式であるが、唐紙障子は略式である。

以上のような基本的な性格のちがいは、古代・中世に例えば屏風の表に絵、裏に唐紙が使われたことと共通している。
しかし、江戸時代の中頃近くには、唐紙障子が使われる部分が拡大し、表向きの公的部分にも次第に拡がって行く。その理由について書き残されたものはないが、江戸時代になって光琳文様など様々な文様が考案され、華やかな唐紙があらわれて唐紙に対する認識が変って来たと考えられること、数寄屋風の意匠の場合、絵師の描く絵はつくり手の意に添わないことがあるのに対して、既製の唐紙を選ぶ場合には意のままになることが理由としてあげられよう。
建築に創意を発揮した小堀遠州の手紙には、絵師は意のままにならず、工期をおくらすことにもなりかねないと記されていて、唐紙が好まれるようになった事情の一端をかいまみることができる。

障子のはじめ

江戸時代に様々に発展した襖障子・唐紙障子・明障子などの障子が、日本の住宅を特徴づける建具となったのは、平安時代のことである。
障子という名称は、奈良時代にすでに存在し、平安時代のはじめには盛んに使われるようになっていた。その形式は、衝立であり、柱と柱の間にはめ込まれたパネル状の壁であった。その典型例は、平安時代初期の様式を残している京都御所にみられる。
まず第一の形式は、清涼殿で使われている年中行事障子や、毘明池障子等にみられる衝立である。昆明池障子は、木の枠にパネルをはめ込み、小さな脚を二つつけている。年中行事障子はパネルに天皇の年間行事を文字で記しているのに対し、昆明池障子等は絵を描いている。年中行事障子は清涼殿の東南入□に通路に平行に置かれているが、昆明池障子は東庇に立てられていて、庇を区画している。通行をさまたげ視線をさえぎる役割を果している。
もう一種は、紫宸殿の母屋と北庇を壁のように一列に区画している賢聖障子である。母屋の北側に並ぶ丸柱列の間にはめ込まれたパネルで、中国の賢人聖人の像が描かれ、裏面には鳳凰が模様のように散らして描かれている。これも障子の名称の通り、母屋と北庇をへだてる役を果している。
この賢聖障子は、母屋と北庇の間の柱間すべてに連続してたて込まれているので、中央の柱間ともう一箇所のパネルに、一部を切った扉を設けている。扉の構造はドアー式で、格子の表面に紙及び布を貼っていて、中央柱間では観音開きになっている。

建具としての障子

平安時代に描かれた絵巻物の中に、有名な源氏物語絵巻がある。この中には引違いになった襖障子が描かれている。多くの平安時代末から鎌倉時代に描かれた絵巻にも、襖障子と唐紙障子が使われている。
その様子からみて、源氏物語絵巻が描かれた頃には、すでに襖障子・唐紙障子が完全に建具として定着してしていたと考えられる。 文献上の記録では障子が確実に建具であることを確かめることは難しいが、文献上でも平安時代の中頃には建具としての障子(襖障子と唐紙障子)が成立していたと考えてよい。
この引戸である障子は、発生した時期が平安時代の中頃であるということから考えて、日本で生まれたと考えてよさそうである。当時、中国大陸にも朝鮮半島にもこのような引戸はなかった。さらに、今日迄どちらの地域にも、引戸は通常使われていない。明障子のような木の細かい格子の片面に薄い白紙など光を透す材料を貼った建具は両地域にも存在するが、いずれも扉の形式か蔀(しとみ)の形式で引戸ではない。 平安時代の絵巻に描かれた建具としての障子は、絵巻の絵でみると柱間にたてる時、上部に狭いはめ殺しの部分があり、その下に漆塗の鴨居を設けた形式で、後の長押の下端に接して鴨居を設ける形式とは異っている。この構造形式は鳥居障子と呼ばれているが、この鴨居の上の小壁面は、中世に入ると、早い時期に消えてしまう。

もう一つの障子としての明障子も、平安時代の後半には文献上にあらわれる。しかし、明障子は平安時代の絵巻には全くあらわれない。現在までにみつけ出した絵画史料は、大阪の四天王寺蔵の扇面古写経の内の一面と平家納経の内の一巻の見返し絵だけである。このことから考えて、明障子は平安時代後半にあらわれてはいるが、平安時代にはまだそれほど普及していなかったのかも知れない。

おわりに

以上、襖障子の発展した江戸時代の状況と平安時代における初期の様子について、簡単にふれた。これらのほかにも、障壁画の画題の選び方、襖障子の様々な形式等の襖障子そのものの問題や、これをたてる鴨居の構造などまだまだ多くのふれなくてはならない課題が残っている。